睡眠時間の調整

こんばんんは。cotakaです。

ただいま朝型人間に変身を遂げようと毎日を調整しています。

本当なら今日から2日間の就寝、起床時間は上記のようになる予定で、明後日からは最終目標である、下記のようにしたいと思っていました。

最終目標

が、これはどうにも難しそうです。っていうか今日からの目標さえ実現するのは難しそう・・・。

 

理由は単純な話、普段の帰宅時間が遅いためです。

残業がいつもあって遅いのであれば、仕事の効率化などを図り、帰宅を早めることもできるかもしれません。でも、僕の場合接客業であり、お客様の来店時間によって帰宅時間が決まるため、毎日の帰宅時間が読めないのです。

場合によっては先日のやけっぱちのように、帰った時には就寝時間過ぎなんてことも起こってしまう。なるべくなら習慣化途中で失敗体験をしたくないですからね。

うーん。困った。休みの場合はその気になれば21時就寝も可能だと思いますが、そうそう睡眠リズムを変えるのもかえって悪影響となりそうです。

とはいえ、できないできない言っていてもなにも始まりません。そこで、睡眠のゴールデンタイムをまるまる眠ることはとりあえず脇にうっちゃっておき、しばらくは下記の時間で調整したいと思います。これなら、なんとか習慣化できるまでいけるかも。

遅い時間

とりあえずチャレンジ!

スポンサーリンク

うつヌケ  田中圭一

うつヌケ

こんばんは。cotakaです。

さて、書評です。

 

実はこの本の書評が一番書きたかったのです。

でも書評を書くのを一番迷ったのです。

散々迷って、迷って、迷いまくってやっぱり書こう。と思いました。

 

なぜ、そんなに迷ったのか?理由は簡単。

僕が「うつ」だからです。しかも5年前から。

 

実は2月の終わりから3月の終わりまでまるまる1ヶ月休職し、入院していました。

入院した理由は精神的に倒れたからです。そして幸いなことに職場が休職に理解があったからです。

この本の書評をなかなか書けなかったのはその事実を公表するのがこわかったからです。

 

この本には入院中に出会いました。

入院といっても、休養施設のようなところで、申告さえすれば病院の出入りは自由だったので、「ちょっと気分転換も兼ねて駅前に行ってみよう。だいぶ休んだし」と軽い気分で病院の送迎バスに15分乗って駅前に行き、偶然本屋さんで見つけてすこしでも助けになればと思い、購入しました。

入院してから10日あまりが過ぎていたので、施設の環境にも慣れ、大丈夫だと思ったのです。

そして、その買い物に出た時、初めて「自分は病気だ」と本当の意味で自覚したのです。

本を購入する時も、レジで言葉が出てこないのです。歩くのもやっとなんです、施設では普通に歩けてたのに。

ただ黙って本を出し、一生懸命お金を出して支払いをし、施設の送迎バスを心待ちにして、施設に戻った時に「助かった」と思いました。

なんてことはない。それまでは具合が悪すぎて、自分が病気だと自覚できなかっただけなんです。

自分以外の人が普通に歩いている駅の前でただバスを待っている間、恐怖と疎外感しか感じませんでした。あの感覚は今も忘れることができません。

幸い今は仕事は順調にできていますし、こうしてブログを書くこともできています。でも、いつまた悪化するか、それともこのまま順調に回復していくのかは誰にもわかりません。

入院中に受けた心理カウンセリングでやりたいことを答えるものがありました。困りました。僕には趣味の読書以外、人生においてやりたいことがなかったのです。

丸々2日考えて、早く病気を治して家族を安心させたい。そしていつか世の中の同じように苦しんでいる人たちのために、なにかしたいという考えが浮かんできました。自分でも他人のためになにかをしたいなどと考えたことはとても意外でしたが、心に浮かんできた時、「これだ!」と思いました。不思議なものです。ボランティアでさえ興味がなかったのに。

退院後、こんなに早くブログを始めたのは偶然です。周囲にはまだ早すぎるのでは?ちゃんと病気が安定してからでもいいのでは?と止められたのも事実です。でもまたいつか悪くなれば、なんにもできなくなるのです。やれることはやれるうちにしたかった。冗談ではなく、ここでブログを始める機会に出会ったのは、神様のおぼしめし。と思いました。

僕がブログを始めたのが5月18日から。
ブログは自分に合っていたようで、毎日楽しく書いています。自分が書くのが好きなのも初めて知りました。本当に良かった。

この本には数多くの人たちがどうしてうつになり、どうやってぬけて来たか。という体験談を語っています。著者の田中圭一さんのことは以前から知っていましたが、マンガの作風からまさかうつだったとは思ったこともありませんでした。

そして、僕は入院中この本の登場人物の方々に、共感し、助けてもらいました。マンガだから読むことができたのも大きいと思います。このころは活字も読めるようにはなっていましたが、やはりマンガの方が気楽で、けして厚い本ではないのですが、もったいなくて少しずつ読みました。

登場人物の方々の語る体験談は、僕にはとてもよくわかりました。僕だけではなかった。あれは病気だからだったんだ。と勇気付けられました。

一度うつになった人と、うつになりかけたことがあるけどギリギリ間に合った人との間には大きな違いがあります。「うつスイッチ」が体にできるからです。本の中で「うつスイッチ」が出てきた時にはおもわず「そう!そうなんだよ!」と声が出ました。

心配してくれている人や、たくさんのご迷惑をかけてしまった人、一生懸命支えてくれている人、本当に心から感謝しています。

ですが、やはりうつには、なった人にしかわからないことが確かにあると思います。

倒れる直前は疲れは感じません。

もうずっと頑張ってます。

なにを言われても理解できません。

なにを読んでも頭にはいりません。

昨日できていたことが今日はできません。

好きなことはできるのではなく、できるからうれしいのです。

どんなにフォローされても、自分のことが大嫌いです。

理由を聞かれてもわかりません。

倒れてしまえば、本当に指1本動かすことさえ面倒です。

感情はどこかに行ってしまいます。

家の階段を一段上がるのと、駅のホームから一歩出ることに差は感じません。

味はなにも感じません。食べなくても別に構いません。

うつは心の風邪というのは受診する敷居を下げるため、実際には心のガン。ほっとけば命に関わります。

受診できた人は幸運です。

なにをして欲しいのかもわかりません。

単なる甘えでなれるような病気ではありません。

いろいろな症状や段階がありますので、もちろんこれらが全てではありませんが、僕が実際に病気になって、いくつか経験したことが入っています。僕がなにもわかっていなかったと理解できたのも、実際に病気になったからです。

僕の病気を知った人の中には、心ない(と感じた)言葉を投げかけた人もいました。それでも、あんなに辛い病気になる人が少しでも減ることを心から願います。

僕がcotakaというペンネームを使って違う人生も生きたいと思っているのは病気のない人生を歩きたいためでもあります。僕がcotakaでいるかぎりお気遣い無用です。でもそのお気持ち、ありがとうございます。

今回のことは書く前に、物凄い葛藤がありました。ブログ開設時から、もうこの書評のことは考え始めていましたから。

それでも書こうと思ったのは、知人の女性が何回もうつになっていたことを最近知ったからです。いつも笑顔で精力的に活動する彼女にそんな過去があったなんて全く知りませんでした。そして彼女はそんな過去をペロッと教えてくれたのです。本当にペロッて感じで。

彼女にはブログを書いていることを伝えていますから、もしかしたらこの文章を読むかもしれません。ここでお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。私はあなたに勇気をもらいました。

そして、もし同じ病気で苦しんでいる人でこの小さなブログをたまたま見つけた方がいたら。僕はあなたの力にはなれないけど、心から応援しています。今この文章読んでるんでしょう?大丈夫。今は生きてる。とりあえずこの本を明日読んでみよう。ペラペラめくるだけでもいいから。

 

スポンサーリンク

年老いて

海波

こんばんは。cotakaです。

前回の更新で最後に

『若くしてもひとり、これを孤独と呼ばず。老いて尚ひとり、これを孤独という』

という言葉をご紹介しました。そして割と最近ようやく意味がわかったと。今日はその続きです。

この言葉は、残念ながらどこで読んだのか、誰かがおっしゃった言葉なのか、はっきりとは思い出せないのですが、数年以上前に聞いたはずなのに、僕の中にはっきりと残っていて、喉の奥の魚の骨のように、時々チクッと僕に刺激を与え続ける言葉でした。

それなのに、この言葉の意味がよくわからなかったんです。「ひとり」と「孤独」。何が違うのかと。どっちもひとりぼっちじゃないかと。

「ひとりというのはほら、友達とかいるけど、たまたまその時ひとりでいたってことで、孤独ってのは友達とか知り合いが全然いないひとのことだよ」

以前の僕はそう解釈していました。もしかしたら今これを読んでいるあなたも、僕と同じような解釈をするかもしれません。

でもですよ。それだと若い時と老いた時の違いが説明できないんです。若くても老いていても同じ解釈がなりたってしまう。ひとりぼっちはひとりぼっち。歳は関係ないみたいですもんね。

んでもって、数年このことは忘れていたわけです。なんとなく分からないところは曖昧にしておいて、全体としてはなんとなくわかったような気になって。

だけど時々チクッと来てたわけです。どんなタイミングかはよくわからないけど、急に思い出して。

それから数年が経ち、就職して、結婚して、子どもも2人いる今の僕が出来上がって、僕の家庭というものもできました。

そして今回同様、たまたま「孤独」ってなあに?とか考えている中で、「あれっ?」と思ったのです。「今の僕がもしひとりになったら、孤独という感じがするぞ。」と。

若い時にひとりでいる時には感じられなかった「孤独」という感覚を、確かに感じられるようになっていたのです。

で、そこでまた考えたわけです。この違いはなんだと。もちろん年数を重ねて、自分が大人になった、というか歳をとった。それは事実です。あとの変化は、就職したこと、家族ができたことです。

 

「そうかぁ。」と穏やかに理解する瞬間が来ました。

正解かどうかなんて確かめようがないけど、どうでもいい感じでした。「腑に落ちた」とでもいうのでしょうか。

この文章のなかの「ひとり」は自分のことを表しているのではなくて、自分のことを「想ってくれる人」の数のことなんだと思います。

 

今、家族の誰も僕のことを想ってくれなくなったとしたら、感じる感情は「孤独」だということです。

若い時にひとりでいても、「自分のことを想ってくれている人」はいると思います。絶対ではないけど、まだまだ人生先は長い。チャンスは無数です。

ただ、老いた時には、若い時の自分のことを知り、今も想ってくれている人の数は間違いなく減っています。だって、身も蓋もなく言えば寿命がありますから。下手をすれば自分は仲間のうちの最後のひとりかもしれません。

今、家族がいるから安心とも言えません。老いた時に自分のことを想ってくれている保障など、どこにもないからです。そして想うというのは良い感情ばかりとも限りません。「憎しみ」などネガティブな感情も想っていることに違いはありません。年老いてまで大変だなぁとは思いますが、その人は孤独ではないです。

「じゃ、じゃ、じゃ、じゃあさ、老後に結婚もしてなくて、友達もいなくて、孤独死まっしぐらみたいな私は孤独だってわけ?」と訊きたくなる人もいるかもしれません。いますよね。孤独死のニュースよく聞くもんね。でも、まだ大丈夫かもしれませんよ。

『若くしてもひとり、これを孤独と呼ばず。老いて尚ひとり、これを孤独という』

この文章の「ひとり」というのは「自分を想ってくれるひとのこと」だといいましたが、言葉足らずな点はもう一つあります。年老いた時、自分のことを想う人がいないことを孤独と言っているのですが、「想う人は他人でなくてはいけないとも言っていない」ことです。

自分のことを「想ってくれるひと」は自分自身でもいいんです。そして、他人だけでなく、自分自身も自分のことを想わなくなったとき、「本当の孤独」がやってくるのだと思います。

 

僕は今年で42歳を迎えます。

何年後を「年老いて」というかまだわかりませんが、「本当の孤独」はいやだなぁ。寂しいじゃん。

スポンサーリンク

海

こんにちは。cotakaです。

「咳をしても一人」

はい。みなさん覚えてますか?作者は尾崎放哉(おざきほうさい)さんです。

「分け入つても分け入つても青い山」の種田山頭火(たねださんとうか)さんと同時期に自由律俳句の分野における著名人として、学校で習いましたよね。

と、ここまで書いてますが、僕は別に国文学、ましてや俳句に特別な思い入れもありません。学校で自由律俳句を習ったときも、『えーっ!こうなったらなんでもありじゃねぇか。五七五は?ねぇ五七五はぁ⁉︎』と授業中にふてくされてたからこのお2人を覚えたくらいです。

なんでそんな興味のない俳句?のことに触れたかというと、最近「孤独」というものについて考えることがあったからです。別に孤独になりたいと考えていたわけではありません。そもそもなんで考え始めたのかもよくわかりません。僕はただ何かを考えているのが好きなのです。めんどくせぇ奴。

バスに乗っていても、電車に乗っていても、今僕がブログを書いている上島珈琲店にいても、実に多種多様な方達がいます。

当然のことながら、それぞれの方にはそれぞれの方なりのつながりのある方がいて、日々生きているわけです。

ということは、孤独でいることは現代では、実は難しいことなのかなぁと思ったのです。そのとき、冒頭に書いた「咳をしても一人」を急に思い出しまして。

当時学校では「尾崎放哉さんが咳をしても周りにだれもいない、孤独感を表現した名句である」とかなんとか、細かいとこまでは覚えていませんが、そのような感じで教わりました。そのときの感想は「ふーん。」です。

でもね。今回思ったんですよ。「尾崎放哉さん、咳をしたときは確かに一人だったかもしれないよ。見てないから知らないけど。でも、本当に一人だったとしてもそれは孤独とイコールなの?」と。

実際、尾崎さんにも知人、友人などはいたと思われますし、俳句を発表し、なによりこうやって教科書にまで載って現代に受け継がれている。それは孤独ではないでしょう。「先生、違うと思うぞ」当時言ってたらめんどくさいと思われたでしょうね。気づかなくてよかった。

僕はひとりと孤独は違うと思います。もし同じだとしたら、それは「こころ」とか「想い」を無視したことになると思います。と、ここまで考えてまた思い出した文章が。以前も孤独に関して考えていた時のことです。

 

『若くしてもひとり、これを孤独と呼ばず。老いて尚ひとり、これを孤独という』

という言葉をどこかで読んだことがあります。この言葉の意味はなんなのか?

長いことかかって、わりと最近、ようやく意味がわかった文章です。

それはどういうことなのか、また続きを書きたいと思います。

スポンサーリンク

飛行機と空港

雲青空

こんにちは。cotakaです。

子供のようなことをいいますが、僕は空港と飛行機が好きです。

飛行機が好きな理由は割と単純で、もともと空を飛ぶことに憧れていることと(将来はモーターパラグライダーを乗り回したいです。)、ここではないどこか遠くに、乗ってしまえば簡単に連れて行ってくれること。

この場合どこに行きたいかはあまり関係ありません。ここではないどこかに、それも遠くに行ける可能性を感じることが大切なのです。

だから、飛行機の性能や航空会社などはあまり気になりません。(飛行機そのものに関しては、実は僕の義理の妹が異常に詳しいらしく、例の911テロのときにはツインタワーに突っ込む飛行機の映像をみて、「あ、〜の〜〜だ」と航空会社と飛行機の機種を即答したらしいです。すごい。)

んで、空港を好きなのは、あの、どこか遠くに行けるんだぞー!って空気感がたまらないんです。だから、お土産コーナーには興味ありません。航空カウンターだけでいいのになあとまで思っています。

正直いうと僕はまだ海外に行ったことがありません。国内便のロビーでさえ、ワクワクが止まらないのに、これが国際便のカウンターなんてなった日にゃあなた、ワクワクのウキウキですよ。41歳だけど。

と、ここまで書いてきて、ふと、もうひとつとても好きな場所があることに気づきました。急に降ってきたって感じです。

ええと、それはホテルです。あのーいかがわしいホテルではもちろんありません(もちろんというのも悲しいものだな)。あと、出張とかでお世話になる(忌まわしき)ビジネスホテルでもありません。

なんちゃらハイアットとかうんちゃらカールトンとかの高級ホテルのことです。はいはい。当然泊まったことはありませんよ。(最近は旅行にも行ってないので、いつも寝るのは埼玉北部の自宅ですからね。周りは畑、田んぼにカエルとカエル、あとはカエル。あっ、あれもあった。カエル。)仕事の関係で中に入ってそのまま通過したことがある程度です。

あと、札幌に住んでいたときには札幌ではわりと由緒正しきホテルも仕事の集まりでよく使ってました。

空港とホテル、なんで好きなんだろうなぁ?別に制服とかには一切興味がないたちなので、そっち方面から好きだということではないです。なにか共通点があるんだろうか?

うーん?としばらく自己分析をしてみると、やはり飛行機と同じ理由なんじゃないかという答えに行き着きました。

ホテルの中って、高級になればなるほど、空港と同じように日常とかけ離れた空間にいる感じがします。泊まったことはありませんが、部屋に入るともっとその感じを受けるんじゃないでしょうか?それとも国内の場合、窓の外を見ちゃダメですかね。

結論として僕は、いつもここではないどこかに、いつでも連れて行ってくれるものにたまらない魅力を感じるみたいです。そういえば、読書も精神的な旅みたいなものです。

ここではないどこか。

そこがどこかわかったら、またつまらないと思ってしまいそうですが。

あなたにとってのここではないどこかはありますか?

スポンサーリンク