最近、「書き言葉」と「話し言葉」について考えることが多い。
僕は小学校の授業で作文を書いていた時、先生に「友達に話しているように書きましょう」と言われた。
なかなか筆が進まなかった僕に対してのアドバイスだった。
どの程度そのアドバイスが効いたのか?その結果、なにを書いたのか?についてはさっぱり覚えていない。
ただ、「友達に話しているように書きましょう」。その一言だけは覚えている。
その後小学生の僕は、いつものまにか「先生ウケ」のいい作文は書けるようになっていった。
文章力が上がったから?
僕はそうは思わない。
学校で書く作文には「先生ウケ」の良い「正解」がある。
その「正解」を書く技術を身につけただけだ。まったくもって嫌な子どもである。
技術だけを身につけた僕は、しばらくその先生の言葉を忘れていた。
そのアドバイスを久しぶりに思い出したのは、大学生になって芝居の脚本を書き始めた時だ。
芝居の場合、当たり前だが役者は僕の書いたセリフを話す。
大切なのはセリフを「読む」のではなく、「話す」ということだ。
僕は演出を兼ねていたので、自分が書いたセリフを役者が「話す」のを、誰よりも注意深く聴いていた。
しかし、脚本を書いていた時に頭で描いていたシーンが、実際に役者に演じてもらうとイメージ通りには見えてこないことが時々あった。
役者の技術のせいで、ということはもちろん少しはある。
しかし圧倒的に多かったのは、僕の書いたセリフが、「話し言葉」になっていないことが原因だった。
「書き言葉」は生身の人間が「話す」と、なんともいえない違和感が残るのだ。
そんな時僕は、役者にセリフの意図を説明しながら、その場でセリフを「書き言葉」から「話し言葉」に直していった。
そして、新しく生まれた「話し言葉」は、ほとんどが「書き言葉」よりも情報をそぎ落としたものになっていた。
はっきり言って、直したセリフだけを読んでいたら全く意味がわからない。
そこに役者の演技や感情が(時には小道具も)入らなければ、そのシーンそのものが成り立たない。
脚本だけを書いて演出時の指示もないまま、こちらが想像していたシーンをイメージどおり演じてもらうということ。
これがいかに難易度が高いものかは、なんとなく想像していただけると思う。
そう考えると小学校の時に先生が言ってくれたアドバイス、
「友達に話しているように書きましょう」。
これはつまり、「友達に『話して』いるように、『書き言葉で』書きましょう」という意味だ。
今思えば、なんて難しいことを小学生にアドバイスしたものだ。
さて、ここからが本題。いやホントに。
どうして最近の僕が、「話し言葉」と「書き言葉」について考えるのかについて。
このブログを開いてくれたあなたは、はたして文字を「読んでいる」のか?、それとも「僕が話している」のを「聴いて」いるのか?
これがどうもわからない。どっちなんだろう?
「そりゃ、ブログなんだから『読んでいる』でしょう!」とあなたは答えるかもしれない。
はい。それはよくわかります。文字ですからね。
でも僕自身は、どちらかといえば文字を「読む」時に、書いた人が話しているのを「聴いている」気がする。
会ったことのある人ならその人の声で、会ったことがなければ声も想像で。
自分がそんな読み方をしていることに、実は最近気がついた。
そして、「あれ?僕のブログを見てくれた人たちはどっちなんだろう?」と考え始めてしまった。
この区別が僕の中で大切なのは、記事を書く時に「書き言葉」で書くのか、それとも「話し言葉」に寄せて書くのかが違うからだ。
「『話し言葉』に寄せる」と書いたのは、完全な「話し言葉」にすると意味が通らないからだ。芝居のセリフのように。
さて、改めて尋ねたい。
あなたは「読んで」いますか?それとも「聴いて」いますか?

cotaka

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