こんにちは。cotakaです。
「咳をしても一人」
はい。みなさん覚えてますか?作者は尾崎放哉(おざきほうさい)さんです。
「分け入つても分け入つても青い山」の種田山頭火(たねださんとうか)さんと同時期に自由律俳句の分野における著名人として、学校で習いましたよね。
と、ここまで書いてますが、僕は別に国文学、ましてや俳句に特別な思い入れもありません。学校で自由律俳句を習ったときも、『えーっ!こうなったらなんでもありじゃねぇか。五七五は?ねぇ五七五はぁ⁉︎』と授業中にふてくされてたからこのお2人を覚えたくらいです。
なんでそんな興味のない俳句?のことに触れたかというと、最近「孤独」というものについて考えることがあったからです。別に孤独になりたいと考えていたわけではありません。そもそもなんで考え始めたのかもよくわかりません。僕はただ何かを考えているのが好きなのです。めんどくせぇ奴。
バスに乗っていても、電車に乗っていても、今僕がブログを書いている上島珈琲店にいても、実に多種多様な方達がいます。
当然のことながら、それぞれの方にはそれぞれの方なりのつながりのある方がいて、日々生きているわけです。
ということは、孤独でいることは現代では、実は難しいことなのかなぁと思ったのです。そのとき、冒頭に書いた「咳をしても一人」を急に思い出しまして。
当時学校では「尾崎放哉さんが咳をしても周りにだれもいない、孤独感を表現した名句である」とかなんとか、細かいとこまでは覚えていませんが、そのような感じで教わりました。そのときの感想は「ふーん。」です。
でもね。今回思ったんですよ。「尾崎放哉さん、咳をしたときは確かに一人だったかもしれないよ。見てないから知らないけど。でも、本当に一人だったとしてもそれは孤独とイコールなの?」と。
実際、尾崎さんにも知人、友人などはいたと思われますし、俳句を発表し、なによりこうやって教科書にまで載って現代に受け継がれている。それは孤独ではないでしょう。「先生、違うと思うぞ」当時言ってたらめんどくさいと思われたでしょうね。気づかなくてよかった。
僕はひとりと孤独は違うと思います。もし同じだとしたら、それは「こころ」とか「想い」を無視したことになると思います。と、ここまで考えてまた思い出した文章が。以前も孤独に関して考えていた時のことです。
『若くしてもひとり、これを孤独と呼ばず。老いて尚ひとり、これを孤独という』
という言葉をどこかで読んだことがあります。この言葉の意味はなんなのか?
長いことかかって、わりと最近、ようやく意味がわかった文章です。
それはどういうことなのか、また続きを書きたいと思います。

cotaka

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