このあいだふと考えた。
「一番好きなもの(趣味)はなんですか?」と聞かれた時、なんと答えるだろう?
好きなことはいっぱいある。映画や、特定の音楽や、美味しいものや、文房具や、空想や、コーヒーや、博物館巡りや、その他もろもろ。
僕のことを直接知っていたり、このブログを見てくださった方なら、「『読書』でしょ?」と答えてくださるかもしれない。
確かに本は大好きだ。
2、3日本が読めないとそわそわする。もっと読めないとイライラに近くなる。吸ったことは一度もないが、タバコを吸うのと同じような感覚なのだろうか。
奥さんにこの話をしたら、この感覚は理解できないと言われた。うん。まあ、そういう人がいても全然構わないと思う。人にとって大切なものはそれぞれあって、それでいいと思う。
ただ、ここまで言っておきながら、最近ぼんやりと思うことがある。僕は「読書」が一番好きなのだろうか?
もっと好きなことは「知ること」なのではないか?と。
「知らないことを知ることが大好きだから、一番『時間と選択の自由度』が高い、読書が好きなのではないか」と。
その証拠に(別に読書を否定するわけではないが)、読書でなくても、好きなことについて人に教わるのも好きだし、「知らないこと」を見つけると心が踊る。
先日、自宅から車で少し行ったところに大きな書店があるのを見つけた。
入ってみて驚いた。本と文房具がとても広いフロアに山のようにあり、傍らにはコーヒーショップまで併設している。僕にとっては夢のような場所だ。こんな場所が自宅のわりと近くにあるなんて全然知らなかった。
でも、ここに限らず大きな本屋さんに行くと少し寂しくなることがある。僕は生きている間に、ここにあるすべての本を読み終えることはできないという事実を知っているからだ。夏の間に行きたいと思っている国会図書館では、もっと寂しくなるのだろうか?英語がスラスラ読めたら、もっともっと寂しくなるのだろうか?
つまり「知らないこと」を抱えたまま、「知らないこと」に気づかないまま、人生を終えるのはとても寂しいことだと僕は思うのだ。
それほどまでに、世の中は「知」であふれている。
数学者や哲学者、別に学者でなくても構わない。音楽家や作家や職人など。何かの専門家と言われる人は、僕とは違った世界が見えていると思う。そして、僕にはぞれを知る時間はもうない。それがとても悲しい。
でも、例え間に合わなくても「知りたい」からあがくのだ。一つでも多くの「知らないこと」に気づくため、明日からも生きるのだ。
それだけの価値が「知ること」にはある、と僕は思う。
僕は生きている間、どこまで「知らないこと」に近づけるのかな?

cotaka

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