よりどりみどり

書店

こんにちは。cotakaです。

僕はamazonで本を買うことも多いのですが(プライム会員なので、とにかく早く手に入れたい時は便利です)、買う、買わないに関わらず本屋さんに足を運ぶことも多くあります。

外出先に本屋さん(なぜか書店というと僕の場合しっくりこないんです)があれば、時間が許す限り、必ず足を運びます。

そのお店がジュンク堂さんや紀伊国屋さんのような大型店でも、個人商店のような小さな本屋さんでも僕の中では同じ本屋さんで、あまり差はありません。ただし、どちらのタイプのお店でも、あまり本を大切に扱っていないお店があり、その場合は悲しい気持ちになってすぐに店を出ます。

自宅では、本を直接床に置いたり、ましてや子供が足で踏んでしまうのを見ると、普段あまり小言を言わない僕もすぐに注意します。人気ドラマだった「カルテット」の中で鍋敷きに自分の好きな本を使われるのを見て悲しそうにしていた宮藤官九郎さんの気持ちはとてもよくわかりました。僕ならその場ですぐに本を救出します。

で、本屋さんに行くといつも感心することがあります。それは本のタイトル。本の装丁と言ってもいいのでしょうが、当然のことながらタイトルには言葉しか使えないので、その発想にはとても考えた方のセンスを感じます。

タイトルにも幾つかのパターンのようなものがあって、たとえば、有名な書名や映画タイトルなどのもじり型、一言熟語型、あやかり型、知りたい型、おどろき型、説明型、そのほか型などがあると、僕は思ってます。

僕にとって、一番つまらないのはあやかり型、たとえば・・・で書名を出すのは気がひけるのでしませんが、ベストセラーなどが出ると、そのタイトルによく似たタイトルの本が次々と出てくることがあります。あれはなんでなんでしょう?

間違って買うのを期待しているのか、それとも書名を考えるのが面倒くさかった、時間がなかったとかが理由なのでしょうかわかりませんが、あまり本に対しての愛情を感じないので、はっきり言って嫌いです。本自体には罪はない。つけた人が悪いんだと思います。

 

もじり型はまあ、ダジャレみたいなものです。個人的には結構好きです。見て「うまい!」と思うものの、実はあまり頭に残らなかったりしないのが悔しいのですが。本ではないですが、「12人の怒れる男」を「12人のやさしい日本人」とした三谷幸喜さんはやっぱりすごいと思います。

 

一言熟語型にはミステリーものが多いですよね。「理由」「慟哭」「秘密」「手紙」「サイコパス」とかそういうのです。タイトルで内容を推測させたくないからそうなるのでしょう。

 

知りたい型は、タイトルだけでは意味がわからない。聞いたことがない言葉が使われているものです。意味がわからないからつい手にとってしまいます。「バカの壁」「百夜行」「フィッシュストーリー」あと星野源さんのファンなのであえて出しますが、「逃げるは恥だが役に立つ」(ハンガリーのことわざらしいですね)、などです。と

 

驚き型にはセンセーショナルな言葉が使われます。「嫌われる勇気」「大人の発達障害」「良心を持たない人たち」「いいひと戦略」などがあります。数字を使ったもの、特に年齢を入れたものもこのタイプに入れてもいいと思います。「20代になったら〜」「30代のうちに〜」とかちょっと焦りますもんね。一つの戦略としては理解できます。

 

 

説明型は、そのまま本に書いてある内容を表したもの。「ずぼらヨガ」「〜ダイエット」「〜勉強法」など。最近はここにアメリカの大学名を入れたものが多く入ると思います。「ハーバード大」「スタンフォード大」なんかはよく見ますし、企業名も頻繁に見ます「トヨタ式」「マッキンゼー」あたりは常連でしょうか。

それでは、最後のそのほか型。まあ、単純に以上の型に当てはまらないもので、最近では「90歳。何がめでたい」というのも結構好きなのですが(なにせ90歳になれないと書けないところがもうずるい。ライバルを蹴散らしています)、僕が一番感心した本のタイトルがここのジャンルに入ります。

「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」

 

このタイトルを思いついた時、その人は思いっきりガッツポーズをとったはずです。僕なら我慢できない。

スポンサーリンク

コップの水

桜

こんばんは。cotakaです。

深夜にさらりと流れるようなお話を。

一昔前、当時勤めていた職場に、僕と正反対の楽観主義の同僚がおりまして、僕は悲観主義というと悲しい限りですが、とてもネガティブな性格なので、あまりの考え方の違いにたびたび驚いていました。

あまりに違うと腹は立たずに、ほほーと珍しい生き物を見つけたような気分になります(注 ほめてます)

いつも休憩時間はガラケーのゲームをしている。ただひたすらに。別に悪いとはいいません。自由な時間ですから。

そして、彼は本が読めない。読まないじゃなくて、読めないんだそうです。活字を追うと2ページ目くらいから気持ち悪くなってくるので読めないらしいのです。本を読まないとソワソワしてくる僕と正反対です。

僕の職業は本を読めないとどうしようもできないと思っていたので、なんとかなるんだ〜と感動すら覚えました。

ある日、そんな彼にどれだけの楽観主義なのか聞いてみたくなりました。

有名な話に「コップに半分の水が入っている。もう半分しかないと思うか、まだ半分もあると思うか」というものがありますが、そのままでは楽観主義度が測れないと思った僕は彼にこう質問しました。

「ねえねえ」

(ゲームをしながら)「んー?」

「ちょっと聞いてみたいんだけどさ」

(無論そのままの姿勢で)「んー」

「仕事の休みが5日あるとして、何日目くらいまで楽しいと思うの?」

ちなみに、僕の答えは『休みが始まる前日の夜まで』です。初日からもう仕事開始日をカウントダウンしてしまう性格です。

僕は彼の答えを待ちました。休みの残りが少なくなる3日目くらいなのか?それともやっぱり最終日までめいいっぱい楽しめるのか?

彼は珍しくこっちをみて答えました。「のこり日数なんて数えない」

「え??」

「だから、休んでいる時に仕事が始まることなんて考えたことない」

冗談ではなく、本気で「すげぇ!」と思いました。僕には全く考えつかない答えだったからです。本物の楽観主義者はそこまで楽観的なんだ!っていうか主義なんてないんだろうな(注 だからほめてます)!

 

そして今年、友人の結婚式に出席した際、その彼と5年ぶりに再会しました。

思い出話をしばらくした後で、「5年前は正直、その楽観主義が全く理解できなかったけど、今ならそれもありかなと思ってる」と伝えました。

彼は5年前のまま、とても幸せな毎日を送っているようだったからです。

とても羨ましかったのは事実ですが、『やっぱり君は幸せでなきゃ』とうれしくなりました。

スポンサーリンク

呑み屋さん

呑み

こんばんは。cotakaです。

僕、大変残念ながら、お酒呑めないんです。

いや、正確には少しは呑めます。そして、お酒の味に関して言えば、焼酎も、ウイスキーも、日本酒も、ワインも、カクテルも、紹興酒も全部美味しくいただけます。どれも美味しいと思います。

ところがどっこい。体の許容範囲が狭すぎるのです。とにかくちょっとしか呑めない。

ちょっとでも呑むと、まず身体中が真っ赤になります。ほんとはそこからもう少し呑めるのですが、とにかく真っ赤になるので、周りが心配して呑ませてくれないのです。

高校生の頃、通学途中で買ったチョココロネを食べてから登校したら、チョコクリームの香り付けのブランデーで真っ赤になって授業を受けたくらいです。だから、無理やり呑まされて急性アルコール中毒になったことはありません。なったら大変か。

呑めないのに、顔に出ない人は大変だろうなあと他人事ながら心配してしまいます。

 

そしてなぜか、お酒を飲むと鼻水が止まらなくなります。なぜだかさっぱりわかりません。だからおしゃれなBARでウイスキーを呑みながら女性を口説く的なことは一生できないでしょう。佐藤浩市さんにはなれないのです。

あっ、BARは好きですよ。1人では一時期よく行ってました。あまり呑めないのでお店の人に悪いなぁとか思ってましたが。

 

僕は美味しいものが好きなので、「お酒と一緒に食べるともっと美味しくなるよ。」と人に言われるとつい呑んでしまうのですが、鼻水のせいで味なんかさっぱりわからなくなります。何度同じ失敗をしたことか。

そんな僕ですが、呑み屋さんはすごく好きなんです。もっと正確に言うと呑み屋さんの料理が好き。

でもせっかく呑み屋さんに行っても、初めの一杯でアルコールを頼まないとなんとなく不穏な空気が流れます。チェーン店でなくて、個人経営の美味しい料理を出してくれるお店は特に。

「ち、違うんです!このお店の美味しい料理を食べたい、心から楽しみたいから呑まないんですよ!いいお酒も揃えている事は重々承知してます。でも呑むと味がわからなくなっちゃうんです!だからしょうがないんですよ。僕も泣く泣くノンアルコールを頼んでいるんです!」と弁解したい。

本当はお酒と一緒に料理を楽しみたいんです。呑みながら「うまい!」とか言っている人に羨望の眼差しを向けてしまうんです。嗜みたいのです。

なんとかいい方法はないかなぁ。

スポンサーリンク

備えは万全

縄

こんばんは。cotakaです。

 

藁・麻または棕櫚の毛などの植物の繊維を細長く綯ったもの。物を結んだり縛ったりするのに用いる。(広辞苑)

泥縄

泥棒を捕らえて縄をなう。事が起こってからあわてて用意する事のたとえ(広辞苑)

 

 

先週1週間、楽譜は買ったものの、ギターの練習をしていません。

このままでは娘の結婚式での新婦父による弾き語りにも、武道館でのコンサートにも間に合わなくなる気がしたため、時間活用法の本を読み始めました。

スポンサーリンク

ものがたりのつくりかた

劇場

こんばんは。cotakaです。

今回長いです。お時間のあるときに、よろしければどうぞ。

以前、劇団をやっていて、そこで演出と脚本を主に担当していたことを書きました。

その時の記事は主に演出について書いたのが中心だったので、今回は脚本(つまりはものがたり)のつくりかたについて書こうとして、ちょっと待て、僕は何をしようとしているんだとすでに思い始めています。

 

つまりは怒らないでね

僕はプロの脚本家でも小説家でもライターでもなければ、現役の劇団員でもございません。その人間が書く「ものがたりのつくりかた」ですから、思い出話しのようなものだと思っていただけたら幸いです。怒らないでね。

僕の書く脚本は、基本的には当て書きと言って、最終的には役者さんに合わせた役をつくり、演じてもらっていました。普通は演出の方と綿密は打ち合わせをするのでしょうが、演出の方は僕の中にいますので、その辺は楽でしたね。

そんでもって、まずは作品のテーマのようなものを探すことから始めます。「テーマのようなもの」と書いたのは、あんまりがっちりとこれが「テーマ」だというものを決めてしまうと、脚本が強すぎて、実際に役者さんに演じてもらった時に、ただの演じる人形のようになってしまうことが考えられるからです。

舞台は役者さんが輝いてなんぼですから、脚本家は演出家とともに、前に出てきてはいけない。と脚本家と演出家の僕が決めたルールでした。

 

さて、「テーマのようなもの」が決まると次は書く作業です。脚本を書くというものの、まずはその下敷きとなる「ものがたり」をかくところから始めます。

「ものがたり」をまず書いて、各シーンの順番を考えたり、想定していた各役者さんに「セリフ」として振り分けたり、お互いの舞台上での位置関係、照明、音楽をト書きとして書くことで、脚本は出来上がります。

ト書きというのは「ここでこんな音楽の中、誰々に照明がこんな照明があたっていて、役はこういう位置関係からこっちに移動する」というような脚本中の説明書きと思っていただけたらと大体あってると思います。テレビドラマとかだと、ここでこっちの顔にアップとかカメラワークも入るんでしょうね。

 

では、実務開始です

んじゃ、「ものがたり」を書き始めます。が、僕はいつも「地獄の始まり」と感じていました。なにがって分かりやすいところをいうと、まず孤独です。脚本家は自分だけですから、自分が「ものがたり」を作らない限り、全てが始まりません。それをたった一人でやるのですから孤独以外の何物でもありません。

しかも、これは各劇団の作風に関わってくるので、各々違うのでしょうが、僕がかく脚本は「基本的に3つの世界がシーンごとに時間も場所も入れ替わり(だから役者さんも、最低1人3役です)、その入れ替わりがどんどん加速していって最終的には一つの世界を描く。

思いっきり簡単に言うと、3本の完成されたお芝居のいろいろなシーンが、あっちに行ったり。こっちに行ったりと、最初はゆっくり、終盤はかなり早いテンポでどんどん入り乱れていって最終的には1本の(4本目)の作品として完結する。という展開のものでした。

(ちなみに思いっきり余談します。小説などを書いたことがある人ならわかってもらえると思うのですが、作品って完結させるのがとても難しいですよね。みんな面白そうな話はいくつも考えられると思います。でも完結できるかはまた別問題。最後に『終』とかいた時の開放感は格別です。どうせ直すんですど、自分の部屋でたった一人で迎えるその瞬間だけは最高でした。あ、そういえばブログもある意味そうか。下書きたくさん持っててもだれにも公開できないもんね。余談終り)

といったスタイルだったため、もう書いている最中の頭の中は、しっちゃかめっちゃかでした。まさに起きている間は脚本のことしか考えられない。でも脚本として本当にしっちゃかめっちゃかでは役者もお客さんもしっちゃかめっちゃかになってしまいますから、各シーン、各個別の話は脚本として完成されていなければならないのです。

つまり1本の脚本は、それだけを公演しても成り立たなければいけない完成度を求められるわけです。

しかも最後は一つのものがたりとして3つの世界が無理なくまとまっていて、面白いお芝居になっていなければいけないのです。あのエピソードは別になくてもよかったよね。と言われたら脚本家としては敗北です。あの役者さんはいらなかったよねと言われるのが演出家の敗北のように(この場合、当て書きだから脚本家にも責任はあります)。この場合どっちも僕ですが。

あと、面白くなかった時一番怖いのは仲間たちです。小説なら登場人物は怒りませんが、お芝居の場合、役者さんスタッフさんみんな生きてる人間ですからつまらない脚本をあげると、普通に遠慮なく怒ります。そりゃそうです。実際の舞台を当日お客さんに観てもらって、面白くなかったら矢面にあたるのは彼らなのですから。

このとき脚本家は、質問には答えますが、どんな質問にも怒ってはいけません。いい作品を作りたいという共通の思いがあって、言ってくれる大事な意見ですし、脚本家が初めて第三者の意見を聞ける大切な時間なのですから、大切に周りの意見を持ち帰り、自分の世界観の中でより良くなるように1人で書き直し、またそれを持っていくの繰り返しです。

ね。脚本作業、地獄でしょ。しかも、脚本がようやくOKとなったとしても、実際役者にやってもらったらイメージと違ったから書き直してなんてことを演出家は平気で言ってきますからね(この場合僕自身ですが)、結局公演最終日まで脚本家の直しは続くのです。

 

なんでそんなめんどくさいことしてたのか?

んじゃ、どうして3つの世界を混ぜるようなめんどくさいことしてたのよって思うかもしれません。1本のストーリーに絞ればもっと楽なんじゃないのと。

その通り!確かに楽なんです。1本の脚本を書くだけの方が、役者さんもスタッフさんも演出家も楽です。もしかしたら観客の皆さんも楽なのかもしれません。

それではなぜ1本の芝居ではなく、複数の世界が入り交じる正直、書くのも面倒臭な脚本を書いていたのか。

もちろん。いろんな理由があります。演出家の僕は役者さんのいろいろな面を観てもらいたい。役者さんはいろんな役を演じる演技力を観せたい。照明や音響のスタッフさんも観客のみなさんに複数の舞台を観せながら、きちんと1本の芝居としても観せる効果は腕の見せ所だったでしょう。

でも、一番の理由は脚本家の僕が、リアルな人間の感情を舞台上に描きたかったからです。この場合、役者さんにはが演出家から、ナチュラルな演技ではなくて、リアルな演技が求められます。

「ナチュラルとリアルの何が違うんでい?」と聞かれると思うので、当時稽古場で演出家の僕が役者さんに説明していた方法を使います、

よくテレビの情報番組などで、ドラマや映画の紹介を褒める時に語られる、役になりきっているとか、本当にそういう人がいそうだったっていうのはナチュラル、つまり自然な演技ができてたってことです。それはそれでもちろんものすごい技術です。

でも僕がやりたかったのはリアルな舞台、演じて欲しかったのはリアルな感情、つまり現実的な舞台だったのです。わかりにくいですか?

それじゃあ今度は質問です。「みなさんはいつでも本当の感情で生きていますか?」

楽しくないのに楽しそうにしたり、すごくうれしいのになんでもないような顔をしたり、本当は泣きたくてたまらないのに、満面の笑顔で会話をしたことはありませんか?

『そんなこと今までないよ』って方はそれはそれで幸せですから、大変結構です。「本当に?」とは聞いちゃいますけどね。

 

リアルな感情とふるまい

僕は人が感情と違うふるまいをしているのを見つけると、とても感動します。

もちろん僕はその人にとって他人ですから、その人の感情なんて全部はわからないし、ましてや感情と違うふるまいをしている理由なんて、その人のこれまでの生き方も関係して決まりますから、複雑すぎてわかろうはずもありません。

でもよおく見てると、理由はわからないまでも、感情とふるまいとの相違は感じらえることがあるのです。

お芝居は結局のところフィクションです。本当の意味でリアルなものを完全に表現できたら、僕は役者さんの人生を背負わなくてはならないでしょう。それは無理。だって僕はあなたじゃないから。

でも、せめて少しだけでもリアルな感情を、場面を。僕が感動した名前も知らないリアルなあの人に少しでも近づいたものをと追い求めた結果、作品として成立させるには複数のお芝居に分解するという方法しか、当時の僕には思いつきませんでした。

1本の脚本でそれを追い求めると、役者さんがつぶれてしまいます、複数の相反する感情を、複数の世界やシーンや役に散らばせることで、役者さんをつぶさずに、全体を通して初めてひとつのリアルに近づいたものをつくる。

これが脚本家兼演出家の僕の目標でした。では、結局それは実現できたのか?

うーん・・・。

今思えば、自分がしたかったことにカスることくらいは、できたこともあったかな?ってくらいです。

でもこれからはわかりませんよ。

今は脚本家でも演出家でもありませんが、僕は生きています。

生きている限り、リアルは芝居が急に開演するかもしれませんからね。

スポンサーリンク